「フラクタル」制作ノート


弱者に向き合わない社会構造が浸透してしまっていて「自分しだい」と切り捨てていることに私たちは気づけない。
社会には、自分しだいでどうにかなる人ばかりではない。


自分と人はちがうのだと区別できなければ差別に気づけない。私たちは誰もが無意識に人を差別している。私たちの誰もが差別を受ける側でもあり差別をする側でもある。すべてのシステムは組み込むものであり組み込まれるものであり、線引きして除外するためのもの。マイノリティはシステムから除外されて受け皿をどんどん無くされていく。
大切なのは、社会が個の尊重ということをどれだけ丁寧に扱えるかということ。

 

障害者に見えないとか難病には見えないとか、自分の尺度で相手を見てしまっていることに気づいてない。それぞれの人が抱えている病気や障害には難とか易とか程度はないのだ。


あなたと私はちがうということを丁寧に扱うこと。それは相手に対しても自分に対しても誠実であろうとすること。私はいつでもそこに向こうとしていたい。人と向き合うことは、同じであることではなくて、ちがうということを認め合うことだと思う。

 

他者を「私も同じだ」「私と同じだ」と自分の尺度に押し込めてしまう圧力から解放されるには、どうすればよいのか。私とあなたは「同じ」であると思い、違いに目を向けようとしない。そうやってマイノリティは社会から切り捨てられて居場所を奪われていく。

 

人は相手のことを、わかって自分の中に落とし込んで納得したいから、自分の価値観に相手のことを押し込めてしまう。「人それぞれだよねえ」みたいなところからどうしたって洩れてしまう、わかりあえない/わかりあいたくない部分を大切にしたい。あなたと私は「違う」という居場所を奪われたくない/奪いたくない。

 

世界は点の集積なのだ。つねに点なのだ。けれど人は不安だから、あっちの点とこっちの点をいっしょうけんめいに繋げようとしながら、それが線だという妄想を抱いて生きているのだ。関係という継続を、線を、求めたがるのだ。

 

関係とは、フェアではないのだ。
片や、あっちの点とこっちの点を無理矢理に繋げてそれを線だと思いたくて必死な人と、片や、間木菱みたく節分の豆みたく四方八方に点をばらまきながら生きる人と。ぽっかりと開いてじくじくと癒えない傷口のような点も、相手には針の穴ほどにも見えない点かもしれない。

 

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残照寫眞第6集「フラクタル」

 

確かなものを求めて私たちは黒は黒だ白でも黒だと倣わされて見失った。あなたと私がわかりあえないからこそ生きることには色気がある。
日本砂漠のフラクタル。

 

あなたと私は違うということと、あなたも私も同じであることとの入れ子。虐げられながら虐げている入れ子の根深い個人の闇。塩化銀粒子の集積からなる銀塩写真。点の集積が線となり面となり世界がはじまる。